コロナにかかって嗅覚が消えた話
コロナにかかって大体1週間くらい寝込んだ。
最初の2日は38度程度の熱、そのあとは喉の痛みがひどかった。気持ち悪くて丸一日絶食したり、寒気があるのに暑かったり今までに経験のない症状が多くてなかなかつらかった。
そして6日目くらいから嗅覚が消えた。
嗅覚が消えると言うのはなんとも不思議な感じだ。
食事をしていても塩味や強い甘味があるもの(桃など)は感じるものの、基本的に味わいというものがない。おれたちが一般に味覚というのはほぼ嗅覚と一体のことを指していたのだと理解した。一時的に嗅覚だけを消せる薬などがあれば、確実にダイエットの成功率は高まると思う。実際これを期に少し絞ろうと思っている。それくらい何を食べても一緒なのだ。
おれはそこまで食べ物に強い執着がある方ではないけど、それでも好きなものを食べるというのは人生において大きな楽しみなのだなと改めて実感したりした。明日、刺身で一杯やろうとか思っても、いや味しないからな食べてもなと思うと楽しみが一つ消えた気分になる。
それから、これも不思議なことだが、嗅覚が消えたらなぜか脳が聴覚も消えたと勘違いしている。具体的にいうとテレビをつけた時にあれ聞こえるかな?とか思ってしまうのだ。脳の中で外部からの情報を整理統合するところは近いのかもしれないと思った。
今はコロナの症状が出てから11日目で、現在進行中である。
早く治るといいな。
手段は必ず目的化の方向に進む
高校野球で坊主が伝統化されたのは、実は「戦争」と深い関係があります。
第1回全国高等学校選手権大会(1915)は、第一次世界大戦の真っ最中でした。当時の日本国民は丸刈りが当たり前で、戦時体制下でも毎年開催されていた夏の甲子園では、長らく坊主頭の球児が出場していました。
この印象が今にも根付き、高校野球界全体の「伝統」になっているというわけです。
目的のための手段は必ず形骸化し、いつか手段そのものが目的となる。
なぜか?それは最初にその手段を考えた人がいなくなるからだ。
そのため、なぜその目的のためにその手段が必要かという理解がない人が増える。
手段を守ることは多くの人にとってわかりやすい。
そしていつしか手段そのものが目的となる。
それを防ぐためには、時代に合わせて手段を変化させることを逆に決まりとして入れなければいけない。
しかしそういった運用は後年の責任者にとっては、現状を変えることになるため、労多くして功少ない。
そのため手段の目的化は果たして残り続けることになる。
レイモンド・カーヴァー「コンパートメント」感想
レイモンド・カーヴァーの短編集「大聖堂」から「コンパートメント」の感想を。
コンパートメントとは列車内の仕切られたボックス席のことである。
以下あらすじ。
故あって妻子と別れた孤独な中年男である主人公がヨーロッパ旅行をし、そのついでにフランスの大学に留学中の息子に会おうとする。
息子とは喧嘩別れしてもう長いあいだ会ったことがない。彼は和解をするつもりで土産を買って列車に乗り込む。しかし息子の待つストラスブール駅に向かうあいだに、自分がもう息子に全然会いたくないことに彼は気づく。孤独な生活の中で、彼の中から愛というものが消えてしまっていたのだ。彼はもうそれをどこに見つけることもできない。彼が思い出せるのは怒りだけである。そして彼は姿を隠して、そのまま駅をやり過ごしてしまう。
しかし彼は切り離された列車に取り残されてしまう。息子の土産として買ってきた腕時計も誰かに盗まれてしまう。彼自身の荷物は本来の列車に積まれたままパリに行ってしまった。彼はひとりぼっちで、言葉もわからぬ異国人にかこまれて、いずことも知れぬ遠い場所に運ばれて行く。(訳者「解題」より)
ゆるやかに沈んでゆく船で一瞬の安息を得るような話だった。
主人公の男には男性的な所有欲を感じる。
家族を失いかけた時に、反抗してきた息子にひどい言葉をかける。
「俺がお前に命を与えたんだぞ。返してもらったっていいんだからな」
一方で失うことを非常に恐れている。
そして家族を失ったときと同じように時計を失い、取り乱す。
俺がタイトルをつけるならもうなにも失いたくない男だ。
切り離された列車に取り残され、何も失いたくないと思いつつ色々なものを失って行く。
しばらくの間、風景が自分からどんどんこぼれ落ちて抜けていくようにマイヤースには感じられた。
村上春樹は解説で孤絶していると書いていた。
たしかに孤絶はしているが、その孤絶によってどこか安心しているようにも見えた。
もう失うものはないのだから。
あるいはとうの昔に失っていたのだろう。家族を失うよりずっと前にもう。
切り離された列車によって連れていかれる場所は、間違った場所かもしれないが、少なくともこれ以上失うものはない。
なぜ息子は駅に迎えに来ないのだろう?という疑問はのこった。
あるいはきていたのかもしれないが。
しかし、レイモンド・カーヴァーは本当に情景描写が上手い。
ヨーロッパの見知らぬ暗い列車のコンパートメントでの不穏な雰囲気なんて見たこともないのに、映像がリアルに立ち上がる。
コムドットに伝えたいこと
いやおれはコムドットの動画とかちゃんと見たことないし、ショートで流れてくる程度にしか知らないけど。件のマラソン企画も自主企画も見てない。
でもさ俺はこの記事を読んで思ったのは、なんで自前で400万人も集めたYouTuberがテレビの企画のコマになってんのってことだった。
テレビの企画で100kmランナーに選ばれることよりさ、0から自前で400万人集めた方がすげぇんだから。
もっと自分たちがやってきたことに誇りを持っていいんじゃね。
自分たちの企画を、自分たち主導で放送します。嫌なら放送しなくて結構です。くらいで行けばいいじゃん。てかなんならテレビでYouTubeの動画流すだけでもいいだろ。これで100マン再生取れたのに視聴率それくらいなんすね。で終わりでしょ。
もちろんテレビの企画力とか視聴者を釘付けにするテクニックとかそういうのは完全にブラッシュアップされてて最適化すげぇと思うけどさ。
なんかある業界で成果を出して(スポーツとかでも)、バラエティに引っ張り出されて、芸能界の大物みたいなのにヘーコラしてるのって見るに耐えないんだよな。
何度も言うけどお前たちはすげぇんだぜ。日本は年寄りが多いせいでそれが明らかになりにくいだけなんだ。
Twitter(X)やめた
正確にいうと3日前からやめている。
3日前の夜に、俺はひとりで九州系の居酒屋に行き、手取川を飲みながら馬刺しを食べ、鰹の藁焼きを食べ、さらに何がしかの吟醸酒を流し込み、しこたま酔っ払い、そしてTwitterのアプリをiPhoneから消した。
おれのTwitterアカウントは二つあった。
一つは非公開アカウントで、もう一つが公開アカウントだ。
どちらも観測範囲は微妙に異なっているものの、コミュニティとして使っていたわけではない。もっぱら情報収集と簡単な日記のように使っていた。
Twitterはおもしろい。無限に刺激的なニュースが湧き上がってくる。
電車に乗ればとりあえず開いたし、部屋でくつろいでるときになんとなく開いた。もちろん地震があれば開いたし、事件があれば開いたし、隅田川花火大会の混雑を見たし、そういえば安倍元首相の襲撃事件の一報を見たのもTwitterだった。
みんなが言うほどにおれはイーロンマスクのTwitterは嫌いじゃなかった。
ジャックドーシーのTwitterは、たしかに古き良きインターネットだったが、一つのインフラにすらなってしまった巨大なインターネットメディアを運営するようにはできてなかったんだと思う。やはり、一国の大統領のSNSアカウントを簡単に凍結できてしまうのは、おかしいことなんじゃないかと思っていた。
イーロンマスクのTwitterはそこから歩みを進めようとしていたし、その過程に失敗があろうと、今までのTwitterと違う責任を果たすかたちでアップデートする方向に向かっていると思う。
だから、変わりつつある運営方針に嫌気がさしたとかではない。
ただたんに、毎日流れるニュースやつぶやきを見ていて、なんかこれ見てるの良くないなと思ったのだ。拡散されているネガティブな要素が澱のように自分の中に溜まっていったんだろうと思う。
じゃぁそういうの見ないようにフォローだけ見てればいいじゃんと思うけど、そしたらたいして面白くもない。つまり俺って結局そういう刺激を求めてるってわけで、だったら意味ないじゃん、いいや一回消してみようとなったのだ。
アルコールで痺れた大脳もたまにはいいことをする。
もっと自分のことに集中しよう。
しかしメディアの運営というのは本当に難しいようだ。メディアは大きくなればなるほど、権力を持ってしまう矛盾をはらんでしまう。このあたりのことは、以前に、ニコニコ生放送の政治部門で同様のことが起きつつあったことを川上量生さんが話していた。
もしかしたらまた復活するかもしれないけど、今のところ必要は感じていない。
君たちはどう生きるかについて語るときにおれの語ること
目次
アニメーションとテーマについて
君たちはどう生きるかについて語るとき、アニメーションの技法について語る人は少ない。カット割の長さについて、レイアウトや崩れたパースについて語る人は少ない。
なぜならおれたちは絵が描けないからだ。アニメーションが作れないからだ。
その技術的観点から宮崎駿の意図を汲み取ら(れ)ない。
だから物語の解釈を、ストーリーという方向でしか評価ができなくなる。
なにを描き、なにを描かなかったか。
風景から天候、道端の小石にいたるまで、実写と違いほぼすべてをコントロールできるアニメにおいて、じつは最も大事なことの一つが削ぎ落とされた状態での解釈となる。
この自覚が何より必要ではないだろうか。
テーマが母だとか何だとかいう解釈しようとする前に、技術的なテーマもあったはずだ。
押井守は、宮崎駿のことを「飛んだり跳ねたり走ったりすることだけで、エモーショナルな何かを喚起できる力」を表現することができる、唯一無二の天才アニメーターといった。
庵野秀明はもっと端的にレイアウトの人ですからねと言った。
ストーリーの解釈について
ストーリーの解釈というには、誰にでもできるように思える。
しかし、今まで浴びてきた物語の量や人生の経験に応じて幅がある。年をとるにつれ、昔はわからなかった物語の良さが自然と理解できたりするようになるのは、その最たる例だろう。
だから、ストーリーの解釈というのは、決して自分に引きつけすぎてはならない。
ありていな言い方で言えば、「自分のものさしで測るな」ということになる。
もっと言うと「自分のものさしで測れないからといってくだらないものとするな」ということだ。そういった自分のものさしで測れない経験を多く通過することで、自分のものさしもより長く大きいものとなるからだ。
だから、物語の解釈は、差し出された世界を、現世と対立しない世界としてそのまま受け入れることが必要となる。ある程度自分自身との距離感をもったまま。
難しくいうとメタ的な視点ともいう。メタとは超越することで、ここでは自分の持っているバイアスや、自分の属しているレイヤーを超えるた視点で俯瞰してみるというような意味合いになる。
なぜわざわざこんなことをいうかというと、ときに物語はこの世のことわり(自分の理解)を超えている必要があるからだ。
物語と嘘
「私は、不幸にも知っている。嘘でしか語れない真実があることを…。」
これは芥川龍之介の言葉らしい。
彼の「藪の中」(黒沢映画の「羅生門」の原作)とかもまさにそうだろう。
また、作家の舞城王太郎はもっとわかりやすく説明してくれている。
ちょうどはてなブログで引用されていたので引用の引用をしたい。
ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。本物の作家にはこれは自明のはずだ。
ドストエフスキーやトルストイやトーマス・マンやプルーストみたいな大長編を書く人間だってチェーホフやカーヴァーやチーヴァーみたいなほとんど短編しか書かない人間だって、あるいはカフカみたいなまともに作品を仕上げたことのない人間だって、本物の作家ならみんなこれを知っている。
ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。
(中略)むしろだからこそ、こう考えるべきなのだろう。逆なのだと。作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。
なぜ君たちはどう生きるかをおれたちは解釈してしまうのか。
それは物語の前に立ち塞がる、宮崎駿という作家の、偉大な作家性の存在を抜きにして、物語を見ることがむずかしいからだ。
みんな宮崎駿が好きだ。俺ももちろん好きだ。だから好きな人が考えていることとか、言いたいことを必死になって感じ取ろうとしてしまう、解釈しようとしてしまう。
でもそんなことをしたって結局、宮崎駿の好きなイメージのツギハギと、その流れを見て、自己の経験から勝手に意味を見出してるにすぎない。
もちろんそれでいいのだ。映画の楽しみ方なんて人それぞれだ。
いいのだが、少し解釈とかそういうのと距離をおいてみてもいいいと思う。
おれたちは「宮崎駿の最後の作品」とか「スタジオジブリの新作」とか、そういうことを前提にせず、素直にただの誰かが作った夏休みのアニメーション映画として楽しめばいいのだ。
以下の記事で子供に見て欲しいと書いた。
なぜなら子供なら、宮崎駿の名前に怯むことなく、娯楽としてアニメーションそのものを楽しめるんじゃないかと思ったからだ。
ある作品を完全に理解しようとする態度は、ときに傲慢だと思う。
なぜなら理解とは、理解しようとするわたしを主体に成り立つものだからだ。わたしが主体である以上、物事の理解というのは、わたしの背景に依存してしまう。
そこに共通の背景があれば理解できるし、共通の背景がなければ理解できない。
ということに過ぎないのだ。
世界一難しい解説「君たちはどう生きるか」ネタバレあり
ネタバレなしはこちら。
「君たちはどう生きるか」はシンプルな行きて帰りし物語だ。にもかかわらず難しいと感じる人がいる理由は、この映画がマジックリアリズムの文体で描かれているからだろう。これまでのジブリはファンタジーはファンタジー、リアルはリアルとしてちゃんと分けて描かれていた。飛躍している部分は妄想だったり脳内世界だとちゃんとわかるエクスキューズが出されていたのだ。トトロは不思議な力を使うが、サツキとメイはただの子供だ。ハウルは魔法使いだが、ソフィーは特別な力をもたない。
しかし今作は違う。村上春樹の小説のように、主人公はリアルな人間にもかかわらず突如異世界に行ったり、人間にもかかわらず不思議な力を使う。そしてそのことに登場人物は特に戸惑ったりしない。そのことが逆に観客を戸惑せる。
自分の解釈を添えた物語の解説はこうだ。
戦時中に主人公の中学生、眞人は母を火事で亡くす。彼は母を亡くすこと(助けることができなかったこと)に無力感を抱き、生命力を失い、影のように生きる。
数年後、父と共に母の生家に疎開する。そこに継母が現れる。母の妹の夏子だ。
キスシーンを目撃したり、眞人の目線からだと夏子は官能的に描かれている。実母と血の繋がっている夏子を半分母、半分は女性として見てしまい、眞人はどう接していいかわからない。生きる力を失っている眞人は、学校でトラブルが生じても、自分を自身で傷つけ他人がやったように装うことで、対立を拒み、現実から逃げる。
疎開先の母の生家には不思議な塔があり、その中には隕石がある。これはこの世のことわりを超えたものだ。宮崎駿に出てくる、洋館、高い塔、石といったモチーフは違う世界への入り口でもある。村上春樹における井戸的な存在だ。異世界にアクセスできる場所や異世界そのものとして描かれる。
生家で過ごす眞人。そこにアオサギが現れる。アオサギは終始不穏な雰囲気を醸し出し、死の雰囲気をまとっているが、彼はデウス・エクス・マキナだ。機械仕掛けの神。つまり物語上必要な舞台装置の一部なので、解釈のしようがない。アオサギは大叔父の指示のもと、眞人を異世界、黄泉の世界と現世のはざまのような世界へといざなう。そして眞人がピンチになればちゃんと手助けをする。ただそういう役割なのだ。鳥と人間のあいのこの姿をしているのは、異世界である鳥の世界の存在でもなく、現世の存在でもない、中途半端な存在であることをあらわしている。彼のことを友達のように表現するのは、デウスエクスマキナだとおさまりが悪いからだろう。そういうところがちゃんと綺麗ごとを用意する(子供のために)宮崎駿っぽいなと思う。
妊婦である夏子は、眞人の剣呑な雰囲気を感じ取り、調子が悪くなる。そんな時にも眞人は冷たく接してしまう。眞人の怪我と体調不良により、不安がピークに達した夏子は自分を失い、石、または大叔父に乗っ取られてしまう。
眞人はそうなって初めて夏子を助けに行くために、はざまの世界に行く。
このあたりは古事記にあるイザナギとイザナミの話にも似ている。
イザナギは死んだイザナミにどうしても会いたいので黄泉の世界に会いにいく。しかし黄泉の世界ですっかり姿形が変わってしまったイザナミは帰ることをいったんは拒否するが、帰る準備をしている間は覗かないという条件で、帰り支度をする。しかしイザナギは覗いてしまい、約束を破られたことに激怒するイザナミに襲われる。
その後、身を清めるために宮崎県の川にいき、そこでアマテラスやスサノオなどのたくさんの神が生まれるのだがそれはまた別の話。まぁ世界中にこの類の神話があるのだ。
君たちはどう生きるかに戻りたい。
アオサギに連れられたはざまの世界では、鳥が世界を支配している。そして今度はお手伝いさんが、若返った状態で狂言回しとなって現れる。眞人はお手伝いさんのもとで仕事をし、世界の原理のようなものを感じる。宮崎駿の作品では特に体を動かして働くこと、そして生活をすることで何かを得ることが何回も描かれている。
異世界には死んだはずの母もいる。しかも母がその世界に行った時のまま。つまりその世界では年を取らない、あるいは、時間軸が現世と違うのだ。もしかしたら母も同じように石あるいは大叔父に呼ばれたのかもしれない。母もアオサギと同じように幾度となく眞人を助け、彼の冒険を助ける。
眞人は母を救えなかったことの代償行為として夏子を助けようとする。夏子を助けることはできないが、実際に助けようと禁忌を犯して行動することで彼は一定の満足をする。イザナギと同じだ。この辺も、現在の価値観では理解が難しいところだろう。実際に助けられたかはどうでもいいのだ。なぜなら死者を救うことなどできないからだ。
危険を犯して異世界に行くという行動と、その結果、死者を救うことができないと理解すること自体が尊いものなのだ。
この異世界の神は母の大叔父で、彼はこの世の理を外れた石に魅せられている。大叔父はこの世界を毎日積み石をすることで維持しているが、大叔父とともにその世界は今や壊れようとしている。彼はその石との契約を果たそうと、その世界の後継を眞人に任せようとする。悪意のない完全な世界を、悪意を知る眞人なら作れるからだ。そこには亡くなった母もいる。しかし眞人はそれを拒否する。この大叔父は父の代理だろう。父的なるものから受け継ぐことを拒否し、生きることの痛み(母を救えず亡くしてしまったこと)を受け入れ、自分で人生を切り開くことを選ぶ。
そして、夏子や母とともに不完全な現世へと帰ってくる。
エンディングでは、夏子の子供がちゃんと生まれたこと、そして母の生家を去ることだけが説明されて終わる。
おれの頭の中でスタンドバイミーが流れる。
実際には米津玄師の地球儀が流れる。
マジックリアリズムの文体で描かれたスタンドバイミーのようなシンプルな話である。
以上だ。