君たちはどう生きるかについて語るときにおれの語ること
目次
アニメーションとテーマについて
君たちはどう生きるかについて語るとき、アニメーションの技法について語る人は少ない。カット割の長さについて、レイアウトや崩れたパースについて語る人は少ない。
なぜならおれたちは絵が描けないからだ。アニメーションが作れないからだ。
その技術的観点から宮崎駿の意図を汲み取ら(れ)ない。
だから物語の解釈を、ストーリーという方向でしか評価ができなくなる。
なにを描き、なにを描かなかったか。
風景から天候、道端の小石にいたるまで、実写と違いほぼすべてをコントロールできるアニメにおいて、じつは最も大事なことの一つが削ぎ落とされた状態での解釈となる。
この自覚が何より必要ではないだろうか。
テーマが母だとか何だとかいう解釈しようとする前に、技術的なテーマもあったはずだ。
押井守は、宮崎駿のことを「飛んだり跳ねたり走ったりすることだけで、エモーショナルな何かを喚起できる力」を表現することができる、唯一無二の天才アニメーターといった。
庵野秀明はもっと端的にレイアウトの人ですからねと言った。
ストーリーの解釈について
ストーリーの解釈というには、誰にでもできるように思える。
しかし、今まで浴びてきた物語の量や人生の経験に応じて幅がある。年をとるにつれ、昔はわからなかった物語の良さが自然と理解できたりするようになるのは、その最たる例だろう。
だから、ストーリーの解釈というのは、決して自分に引きつけすぎてはならない。
ありていな言い方で言えば、「自分のものさしで測るな」ということになる。
もっと言うと「自分のものさしで測れないからといってくだらないものとするな」ということだ。そういった自分のものさしで測れない経験を多く通過することで、自分のものさしもより長く大きいものとなるからだ。
だから、物語の解釈は、差し出された世界を、現世と対立しない世界としてそのまま受け入れることが必要となる。ある程度自分自身との距離感をもったまま。
難しくいうとメタ的な視点ともいう。メタとは超越することで、ここでは自分の持っているバイアスや、自分の属しているレイヤーを超えるた視点で俯瞰してみるというような意味合いになる。
なぜわざわざこんなことをいうかというと、ときに物語はこの世のことわり(自分の理解)を超えている必要があるからだ。
物語と嘘
「私は、不幸にも知っている。嘘でしか語れない真実があることを…。」
これは芥川龍之介の言葉らしい。
彼の「藪の中」(黒沢映画の「羅生門」の原作)とかもまさにそうだろう。
また、作家の舞城王太郎はもっとわかりやすく説明してくれている。
ちょうどはてなブログで引用されていたので引用の引用をしたい。
ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。本物の作家にはこれは自明のはずだ。
ドストエフスキーやトルストイやトーマス・マンやプルーストみたいな大長編を書く人間だってチェーホフやカーヴァーやチーヴァーみたいなほとんど短編しか書かない人間だって、あるいはカフカみたいなまともに作品を仕上げたことのない人間だって、本物の作家ならみんなこれを知っている。
ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。
(中略)むしろだからこそ、こう考えるべきなのだろう。逆なのだと。作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。
なぜ君たちはどう生きるかをおれたちは解釈してしまうのか。
それは物語の前に立ち塞がる、宮崎駿という作家の、偉大な作家性の存在を抜きにして、物語を見ることがむずかしいからだ。
みんな宮崎駿が好きだ。俺ももちろん好きだ。だから好きな人が考えていることとか、言いたいことを必死になって感じ取ろうとしてしまう、解釈しようとしてしまう。
でもそんなことをしたって結局、宮崎駿の好きなイメージのツギハギと、その流れを見て、自己の経験から勝手に意味を見出してるにすぎない。
もちろんそれでいいのだ。映画の楽しみ方なんて人それぞれだ。
いいのだが、少し解釈とかそういうのと距離をおいてみてもいいいと思う。
おれたちは「宮崎駿の最後の作品」とか「スタジオジブリの新作」とか、そういうことを前提にせず、素直にただの誰かが作った夏休みのアニメーション映画として楽しめばいいのだ。
以下の記事で子供に見て欲しいと書いた。
なぜなら子供なら、宮崎駿の名前に怯むことなく、娯楽としてアニメーションそのものを楽しめるんじゃないかと思ったからだ。
ある作品を完全に理解しようとする態度は、ときに傲慢だと思う。
なぜなら理解とは、理解しようとするわたしを主体に成り立つものだからだ。わたしが主体である以上、物事の理解というのは、わたしの背景に依存してしまう。
そこに共通の背景があれば理解できるし、共通の背景がなければ理解できない。
ということに過ぎないのだ。