16時のハードボイルド

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世界一難しい解説「君たちはどう生きるか」ネタバレあり

ネタバレなしはこちら。

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君たちはどう生きるか」はシンプルな行きて帰りし物語だ。にもかかわらず難しいと感じる人がいる理由は、この映画がマジックリアリズムの文体で描かれているからだろう。これまでのジブリはファンタジーはファンタジー、リアルはリアルとしてちゃんと分けて描かれていた。飛躍している部分は妄想だったり脳内世界だとちゃんとわかるエクスキューズが出されていたのだ。トトロは不思議な力を使うが、サツキとメイはただの子供だ。ハウルは魔法使いだが、ソフィーは特別な力をもたない。

しかし今作は違う。村上春樹の小説のように、主人公はリアルな人間にもかかわらず突如異世界に行ったり、人間にもかかわらず不思議な力を使う。そしてそのことに登場人物は特に戸惑ったりしない。そのことが逆に観客を戸惑せる。

 

自分の解釈を添えた物語の解説はこうだ。

戦時中に主人公の中学生、眞人は母を火事で亡くす。彼は母を亡くすこと(助けることができなかったこと)に無力感を抱き、生命力を失い、影のように生きる。

数年後、父と共に母の生家に疎開する。そこに継母が現れる。母の妹の夏子だ。

キスシーンを目撃したり、眞人の目線からだと夏子は官能的に描かれている。実母と血の繋がっている夏子を半分母、半分は女性として見てしまい、眞人はどう接していいかわからない。生きる力を失っている眞人は、学校でトラブルが生じても、自分を自身で傷つけ他人がやったように装うことで、対立を拒み、現実から逃げる。

疎開先の母の生家には不思議な塔があり、その中には隕石がある。これはこの世のことわりを超えたものだ。宮崎駿に出てくる、洋館、高い塔、石といったモチーフは違う世界への入り口でもある。村上春樹における井戸的な存在だ。異世界にアクセスできる場所や異世界そのものとして描かれる。

生家で過ごす眞人。そこにアオサギが現れる。アオサギは終始不穏な雰囲気を醸し出し、死の雰囲気をまとっているが、彼はデウス・エクス・マキナだ。機械仕掛けの神。つまり物語上必要な舞台装置の一部なので、解釈のしようがない。アオサギは大叔父の指示のもと、眞人を異世界、黄泉の世界と現世のはざまのような世界へといざなう。そして眞人がピンチになればちゃんと手助けをする。ただそういう役割なのだ。鳥と人間のあいのこの姿をしているのは、異世界である鳥の世界の存在でもなく、現世の存在でもない、中途半端な存在であることをあらわしている。彼のことを友達のように表現するのは、デウスエクスマキナだとおさまりが悪いからだろう。そういうところがちゃんと綺麗ごとを用意する(子供のために)宮崎駿っぽいなと思う。

妊婦である夏子は、眞人の剣呑な雰囲気を感じ取り、調子が悪くなる。そんな時にも眞人は冷たく接してしまう。眞人の怪我と体調不良により、不安がピークに達した夏子は自分を失い、石、または大叔父に乗っ取られてしまう。

眞人はそうなって初めて夏子を助けに行くために、はざまの世界に行く。

このあたりは古事記にあるイザナギイザナミの話にも似ている。

イザナギは死んだイザナミにどうしても会いたいので黄泉の世界に会いにいく。しかし黄泉の世界ですっかり姿形が変わってしまったイザナミは帰ることをいったんは拒否するが、帰る準備をしている間は覗かないという条件で、帰り支度をする。しかしイザナギは覗いてしまい、約束を破られたことに激怒するイザナミに襲われる。

その後、身を清めるために宮崎県の川にいき、そこでアマテラスやスサノオなどのたくさんの神が生まれるのだがそれはまた別の話。まぁ世界中にこの類の神話があるのだ。

 

君たちはどう生きるかに戻りたい。

アオサギに連れられたはざまの世界では、鳥が世界を支配している。そして今度はお手伝いさんが、若返った状態で狂言回しとなって現れる。眞人はお手伝いさんのもとで仕事をし、世界の原理のようなものを感じる。宮崎駿の作品では特に体を動かして働くこと、そして生活をすることで何かを得ることが何回も描かれている。

異世界には死んだはずの母もいる。しかも母がその世界に行った時のまま。つまりその世界では年を取らない、あるいは、時間軸が現世と違うのだ。もしかしたら母も同じように石あるいは大叔父に呼ばれたのかもしれない。母もアオサギと同じように幾度となく眞人を助け、彼の冒険を助ける。

眞人は母を救えなかったことの代償行為として夏子を助けようとする。夏子を助けることはできないが、実際に助けようと禁忌を犯して行動することで彼は一定の満足をする。イザナギと同じだ。この辺も、現在の価値観では理解が難しいところだろう。実際に助けられたかはどうでもいいのだ。なぜなら死者を救うことなどできないからだ。

危険を犯して異世界に行くという行動と、その結果、死者を救うことができないと理解すること自体が尊いものなのだ。

この異世界の神は母の大叔父で、彼はこの世の理を外れた石に魅せられている。大叔父はこの世界を毎日積み石をすることで維持しているが、大叔父とともにその世界は今や壊れようとしている。彼はその石との契約を果たそうと、その世界の後継を眞人に任せようとする。悪意のない完全な世界を、悪意を知る眞人なら作れるからだ。そこには亡くなった母もいる。しかし眞人はそれを拒否する。この大叔父は父の代理だろう。父的なるものから受け継ぐことを拒否し、生きることの痛み(母を救えず亡くしてしまったこと)を受け入れ、自分で人生を切り開くことを選ぶ。

そして、夏子や母とともに不完全な現世へと帰ってくる。

エンディングでは、夏子の子供がちゃんと生まれたこと、そして母の生家を去ることだけが説明されて終わる。

おれの頭の中でスタンドバイミーが流れる。

実際には米津玄師の地球儀が流れる。

マジックリアリズムの文体で描かれたスタンドバイミーのようなシンプルな話である。

以上だ。